長野県松本市にある、平地に築かれた城。黒漆塗りの重厚な外観の天守は国宝で、現存する天守の中では数少ない平城の天守として知られる。
歴史
松本城の前身は、戦国時代の永正年間(1504〜1520年)に信濃守護家の小笠原氏が築いた深志城とされる。1550年に甲斐の武田氏が松本盆地を攻略すると、深志城は武田方の拠点となり、城代が置かれて、越後の上杉謙信らとの争いの最前線を担った。武田氏が滅んだ1582年以降は、木曽氏、上杉氏、小笠原氏、徳川氏と主が目まぐるしく変わり、この頃に「松本城」と改名された。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの後に徳川家康が関東へ移ると、代わって石川数正が入城する。数正とその子・康長は、天守をはじめとする城郭と城下町の整備を進めた。数正はかつて徳川家を離れて秀吉に仕えた人物で、天守の築城には、関東の家康に対する備えという意味があったとも言われる。
江戸時代に入ると、石川氏が改易となって小笠原氏が再び城主となり、大坂の陣の後は松平氏や水野氏が入った。その後は戸田松平氏(戸田氏)が代々城を守った。1686年には、重い年貢に苦しんだ農民たちが訴えを起こし、城を取り囲む貞享騒動が起きている。1727年には本丸御殿が焼け、以後の政務は二の丸で行われた。
明治に入ると天守は競売にかけられ、解体の危機を迎えるが、地元の有力者・市川量造らが博覧会を開いてその収益で買い戻し、難を逃れた。明治30年代には天守の傾きが深刻になり、寄付を集めて1903年から1913年まで「明治の大修理」が行われた。戦後は1950年から1955年にかけて「昭和の大修理」で解体修理を実施し、1952年に天守など5棟が国宝に指定されている。現在も、復元された黒門や太鼓門枡形などと合わせて、城の姿が整えられている。
年表
- 1504頃年小笠原氏が深志城を築いたとされる(永正年間)
- 1550年武田氏が深志城を攻略し、城代を置く
- 1582年武田氏の滅亡後、城主が次々と入れ替わる。この頃「松本城」と改名
- 1590年石川数正が入城。数正・康長の父子が天守や城下町を整備する
- 1686年貞享騒動。年貢に苦しんだ農民が城を取り囲む
- 1727年本丸御殿が焼失。以後、政務は二の丸で行う
- 1872年天守が競売にかけられるが、市川量造らが買い戻す
- 1903年明治の大修理(〜1913)
- 1930年国の史跡に指定される
- 1950年昭和の大修理(〜1955)。解体修理が行われる
- 1952年天守など5棟が国宝に指定される
- 1990年黒門二の門が復元される(1999年に太鼓門枡形)
- 2011年長野県中部地震で天守の壁にひび割れの被害
見どころ
- 黒い外観の五重六階の天守
- 天守に付属する朱塗りの欄干の月見櫓
- 堀に映る天守と北アルプスの眺め
地図
出典
- 公益財団法人日本城郭協会 日本100名城一覧 / 取得日 2026-09-30
- Wikidata(座標)(CC0) / 取得日 2026-09-30
- Wikipedia「松本城」(参照)(CC BY-SA 4.0) / 取得日 2026-09-30
- 写真: Matsumoto Castle 1-1.jpg(柑橘類 (talk) / CC BY-SA 3.0)





